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memo

父との約束

 「おまえ、髪どこで切ってる?」
 風呂から上がったとき、居間でくつろいでいた父に話しかけられた。
 僕は「駅前のとこだけど」と答えた。

 そのあとお互いの通う美容院について話し合った。僕はカットだけか、もしくはパーマを軽くかけることがある、ということを話した。父は通常のカットに加え、プラス500円もかけて耳掃除をしてもらっていた。加えてサービスでマッサージも受けているらしい。そしてこれは父と僕との間だけの秘密であるが、父はプラス1,500円で白髪染めもしているのだ。

 何年か前から父が白髪を染めていることは聞いていた。しかも単なる黒ではなく、「ナチュラルグレー」という色を選択することによって、「ちょっと白髪混じりの七三分け」を永久的に維持しようとしているのだ。芸が細かい。我が家で最も観察力が秀でていると自負する僕でさえ、言われるまで全く気がつかなかった。それくらい父の白髪染めは自然なのだ。

「ただ、ひとつ困ったことがあるんだよ」
 と、父はやけに神妙な面持ちで僕に告げた。もともと小さめの声で話してはいたが、隣りの寝室で寝ている母には絶対に聞こえないように、というふうにさらに声は小さくなった。白髪染めのことは母には特に内緒にしているらしい。(白髪を染めること自体に文句を言われるのを恐れているわけではないと僕は考えている。おそらく父は、白髪染めの料金の1,500円に対して文句を言われるのではなかろうかと、そのことを強く懸念しているのだと思う。)

「もし病院に入院でもしたら、しばらく染められないんだよ」
「入院しなきゃいいじゃん」
「万が一ってことがあるだろ」
「そりゃまあしょうがないから、あきらめて白髪になるしかないね」
「でも急に白髪が増えたら、染めてたことがバレるんじゃないか?」
「別に入院してから急に白髪増えたなって思われるだけだよ」
「そう?」
「それか自分で染めるかだね」
「うーん・・・じゃあアキに頼みがあるんだけど」
 父がニヤリとしたので、僕はなんとなくいやな予感がした。

「万が一おれが入院したら、白髪染め買ってきて染めてくれない?」
 やっぱり。そうくると思った。僕の器用さにつけこんで、父はよく僕につまらない頼み事をしてくるのだ。今回も完全にそのパターンである。「アキの良いところは、いやだいやだと言いながら結局やってくれるところ」と、願い事を叶えるたびに父は嬉しそうに母にそう話すのだ。
 この間もテレビの配線がわからんから何とかしてほしいだの、テープのりのカートリッジを入れ替えたけどなんか動きが悪いから見てほしいだの、しょうもない雑用を僕に頼んできた。その度に僕は貴重なプライベートタイムを損なうはめになるので勘弁してほしい。

 とはいえ、たったひとりの父親の頼みである。最初に相談したときは反対されたものの、今や芸術の道に進む僕を一番に応援してくれているのは他でもない父なのだ。受験時代、「浪人してもいいから自分の行きたい大学に行け」と父は僕に言ってくれた。初めて開いた個展の前には、案内のハガキを知り合いじゅうに配ってくれた。そして何より、僕のことをここまで大事に育ててくれた・・・。
 そんな父の、ささやかなオシャレをいたずらに阻んでなんになるというのだ。白髪染めを否定する権利が誰にあるというのだ。
 百貨店に行って、一番自然な色合いの白髪染めを選ぶ自分を僕は想像した。父の好きな「名探偵コナン」の最新巻を、白髪染めといっしょに持っていく自分を想像した。そして白髪染めがバレてはいけないから、父の病室にお見舞いに行くタイミングを母とずらすため、言葉巧みにウソをつく自分を想像した・・・。

「いやだ」
 僕はそうはっきりと告げた。
by msk_khr | 2013-01-17 23:49 | 日々のこと