ずっとトイレに行きたかった話
いつも工房が閉まる直前まで作業をしている僕がその日、珍しく制作を早めに切り上げ、せかせかと工房を後にしたのは、久しぶりに地元の友達と飲みに集まるわけでも、誰かと表参道あたりで会う約束をしていたわけでもなく、ひとりで下北沢までマヂカルラブリーら若手芸人たちが出演するお笑いライブを見に行くためでした。
工房を出る直前にトイレに行ったはずでしたが、下北沢に着いた時点で僕はすでに膀胱に違和感を感じていました。工房では15時からティータイムがあります。そのときに飲んだ紅茶の利尿作用のおかげで、僕はしばらく苦しむ羽目になったのでした。
尿意とともに眠気もあったので、劇場のトイレを借りたら席を取って開演時間まで寝ようと思い、僕は携帯電話で地図を見ながら劇場のあるビルをぶらぶらと探しました。下北沢の街を探索しながら歩いていたので、駅から徒歩1分の場所にあるはずでしたが30分もかかってしまいました。本気を出せば1分でたどり着けたのですが、下北沢にはそれまで1回しか来たことがなかったし、雨も降っていて少し薄暗かったし、何よりトイレを借りられそうなお店を探してもいたので、このように30倍もの時間を費やしてしまったわけです。劇場の前の通りは2回ほど通過していました。
劇場の近くにはお客さんらしき人たちが傘をさして佇んでいました。整理番号順にスタッフの人に呼ばれるのを待っているようです。僕が着いたときは61番から70番のお客さんが案内されていました。僕の番号は112番だったので、今のうちに近くのゲームセンターのトイレを借りるか、劇場のトイレを借りるかどうかの葛藤の中で10分ほど待つことになりました。まだ僕の尿意は4割程度だったので我慢することにしました。
多少テレビに出ている芸人も出演するライブということもあり、さすがに劇場は混雑していました。僕は客席を一望した瞬間、もうトイレに行くことはできないかもしれない、と第六感で悟りました。ほとんどの席はすでに埋まり、列と列の間は思っていたよりも狭いです。僕は客席の外側をぐるっと回り、まだ席が半分しか埋まっていない列の中程に入りました。
すぐに荷物を席に置き、財布とハンカチだけを持って席を立ちました。開演まであと15分。一旦始まるとおよそ1時間半から2時間くらいはトイレに行くことができません。最後のチャンスを前にモジモジと座っているわけにもいかないので、僕はまだ隣りにひとりしか座っていない一瞬の間隙を狙って道をあけてもらいました。
トイレ側の壁際に女性客が長蛇の列を成していることは目の端に入っていました。しかし前日に劇場のホームページを確認していた僕は、確か女性用トイレと男性用トイレは別々にあったことを記憶していました。客席を見たところ男性客の割合は1割程度、トイレの列には女性のみ。余裕で入れる計算です。「男に生まれて得したことは?」と聞かれたら、「トイレに並ばなくても済むことです」とでも答えよう・・・そんなことを考えながら、列の先頭に向かって僕は駆け出しました。
僕の目はトイレのドアに貼られたプレートに釘付けになりました。騙されたように感じました。そこにあったのは「女性用トイレ」と「男性用トイレ」ではなく、「女性用トイレ」と「女性・男性用トイレ」だったからです。明らかに列は1列でした。ふたつのトイレはまとめて女性客に支配されていました。今さら列の最後尾に並ぼうという気持ちは毫も湧いてきませんでした。
しかし放尿をあきらめて引き返したときの僕の心には、悲しみも、焦りも、不安や怒りさえもまるでなかったのです。そこにあるのは「全部許そう」という凪いだ気持ちだけでした。この世の理不尽な出来事の全てを受け入れる、究極の愛です。僕の尿意はいつのまにか消え去っていました。
トイレから戻ると待ち受けていたのは、僕の席の手前まで埋まってしまったお客さんでした。僕が席を外した60秒程度の間に来ていた、体格の良いB系の男性含む客4名が、僕の行く手を岩のように阻んでいました。「すいません」と手刀を作ると彼らはさっと足を斜めにして道をあけようとしてくれましたが、斜めにしたところでB系の男性のひざと前列のお客さんの背中との間隔は全く変わっていませんでした。僕の足の直径が2センチだったら通れましたが、それはありえないので「後ろから失礼します」と言って僕は一瞬で作戦を切り替えました。
後ろの列はあまり席が埋まっていなかったのと、客席の造りが階段状になっており、背もたれが非常に低くなっていることが僕のピンチを救ってくれたのでした。後ろから席をまたぐ際に座面に置いていたカバンに足を引っかけ、床に落としてしまった瞬間に「アー」という中国人みたいな声を小さく出してしまったので、僕は隣りのお客さんたちに大雑把なシナ人と思われたことでしょう。
「トッパレvol.56」。笑いました。「トッパレ」の意味の説明はさすがに56回もやっていれば割愛されます。最後までわかりませんでした。いろんな事務所の芸人13組が漫才・コント・またはピンでネタを披露。お客さんの投票でランキングをつけるバトルライブです。全くテレビでは見かけないような芸人が世の中にはたくさんいます。売れてないけどいい作品をつくる作家がいるのと同じように、物事の質と知名度というのは必ずしもイコールでは結ばれないと思いました。
ライブのことを思い返しながら、電車に揺られて帰りました。マンションに着き、エレベーターを待っている間に僕は折りたたみ傘を閉じました。エレベーターの中で靴ひもをほどいてズボンのベルトを外しました。家の前に着くと冷静に鍵を開けました。玄関に傘を置きました。靴を脱ぎました。トイレの電気を付けました。ひとり暮らしを始めてから、便器の周りが汚れないように、小便をするときも僕は座って用を足すことにしています。僕は膀胱の極端な緊張状態とは裏腹に、ゆっくりと落ち着いた動きでスボンをひざまで下ろしました。
気が付くと、まるで抜け殻のように空っぽになった自分が、静かに便座に座っていました。
工房を出る直前にトイレに行ったはずでしたが、下北沢に着いた時点で僕はすでに膀胱に違和感を感じていました。工房では15時からティータイムがあります。そのときに飲んだ紅茶の利尿作用のおかげで、僕はしばらく苦しむ羽目になったのでした。
尿意とともに眠気もあったので、劇場のトイレを借りたら席を取って開演時間まで寝ようと思い、僕は携帯電話で地図を見ながら劇場のあるビルをぶらぶらと探しました。下北沢の街を探索しながら歩いていたので、駅から徒歩1分の場所にあるはずでしたが30分もかかってしまいました。本気を出せば1分でたどり着けたのですが、下北沢にはそれまで1回しか来たことがなかったし、雨も降っていて少し薄暗かったし、何よりトイレを借りられそうなお店を探してもいたので、このように30倍もの時間を費やしてしまったわけです。劇場の前の通りは2回ほど通過していました。
劇場の近くにはお客さんらしき人たちが傘をさして佇んでいました。整理番号順にスタッフの人に呼ばれるのを待っているようです。僕が着いたときは61番から70番のお客さんが案内されていました。僕の番号は112番だったので、今のうちに近くのゲームセンターのトイレを借りるか、劇場のトイレを借りるかどうかの葛藤の中で10分ほど待つことになりました。まだ僕の尿意は4割程度だったので我慢することにしました。
多少テレビに出ている芸人も出演するライブということもあり、さすがに劇場は混雑していました。僕は客席を一望した瞬間、もうトイレに行くことはできないかもしれない、と第六感で悟りました。ほとんどの席はすでに埋まり、列と列の間は思っていたよりも狭いです。僕は客席の外側をぐるっと回り、まだ席が半分しか埋まっていない列の中程に入りました。
すぐに荷物を席に置き、財布とハンカチだけを持って席を立ちました。開演まであと15分。一旦始まるとおよそ1時間半から2時間くらいはトイレに行くことができません。最後のチャンスを前にモジモジと座っているわけにもいかないので、僕はまだ隣りにひとりしか座っていない一瞬の間隙を狙って道をあけてもらいました。
トイレ側の壁際に女性客が長蛇の列を成していることは目の端に入っていました。しかし前日に劇場のホームページを確認していた僕は、確か女性用トイレと男性用トイレは別々にあったことを記憶していました。客席を見たところ男性客の割合は1割程度、トイレの列には女性のみ。余裕で入れる計算です。「男に生まれて得したことは?」と聞かれたら、「トイレに並ばなくても済むことです」とでも答えよう・・・そんなことを考えながら、列の先頭に向かって僕は駆け出しました。
僕の目はトイレのドアに貼られたプレートに釘付けになりました。騙されたように感じました。そこにあったのは「女性用トイレ」と「男性用トイレ」ではなく、「女性用トイレ」と「女性・男性用トイレ」だったからです。明らかに列は1列でした。ふたつのトイレはまとめて女性客に支配されていました。今さら列の最後尾に並ぼうという気持ちは毫も湧いてきませんでした。
しかし放尿をあきらめて引き返したときの僕の心には、悲しみも、焦りも、不安や怒りさえもまるでなかったのです。そこにあるのは「全部許そう」という凪いだ気持ちだけでした。この世の理不尽な出来事の全てを受け入れる、究極の愛です。僕の尿意はいつのまにか消え去っていました。
トイレから戻ると待ち受けていたのは、僕の席の手前まで埋まってしまったお客さんでした。僕が席を外した60秒程度の間に来ていた、体格の良いB系の男性含む客4名が、僕の行く手を岩のように阻んでいました。「すいません」と手刀を作ると彼らはさっと足を斜めにして道をあけようとしてくれましたが、斜めにしたところでB系の男性のひざと前列のお客さんの背中との間隔は全く変わっていませんでした。僕の足の直径が2センチだったら通れましたが、それはありえないので「後ろから失礼します」と言って僕は一瞬で作戦を切り替えました。
後ろの列はあまり席が埋まっていなかったのと、客席の造りが階段状になっており、背もたれが非常に低くなっていることが僕のピンチを救ってくれたのでした。後ろから席をまたぐ際に座面に置いていたカバンに足を引っかけ、床に落としてしまった瞬間に「アー」という中国人みたいな声を小さく出してしまったので、僕は隣りのお客さんたちに大雑把なシナ人と思われたことでしょう。
「トッパレvol.56」。笑いました。「トッパレ」の意味の説明はさすがに56回もやっていれば割愛されます。最後までわかりませんでした。いろんな事務所の芸人13組が漫才・コント・またはピンでネタを披露。お客さんの投票でランキングをつけるバトルライブです。全くテレビでは見かけないような芸人が世の中にはたくさんいます。売れてないけどいい作品をつくる作家がいるのと同じように、物事の質と知名度というのは必ずしもイコールでは結ばれないと思いました。
ライブのことを思い返しながら、電車に揺られて帰りました。マンションに着き、エレベーターを待っている間に僕は折りたたみ傘を閉じました。エレベーターの中で靴ひもをほどいてズボンのベルトを外しました。家の前に着くと冷静に鍵を開けました。玄関に傘を置きました。靴を脱ぎました。トイレの電気を付けました。ひとり暮らしを始めてから、便器の周りが汚れないように、小便をするときも僕は座って用を足すことにしています。僕は膀胱の極端な緊張状態とは裏腹に、ゆっくりと落ち着いた動きでスボンをひざまで下ろしました。
気が付くと、まるで抜け殻のように空っぽになった自分が、静かに便座に座っていました。
by msk_khr
| 2011-06-17 16:57
| 日々のこと