人気ブログランキング | 話題のタグを見る

memo

整いました

整いました_e0188090_14335026.jpg
 異常なまでに摩耗した歯ブラシ。
 もし友達の家でこんな歯ブラシを見つけたら、「ちょっと勇みすぎだよ」とたしなめることだろう。毛先が横に広がった歯ブラシなら見たことがある。使っていくうちに毛にクセがついていくことなら知っている。
 しかし普通の力で磨いていればこのように毛自体が消滅することはない。イエティ的な動物が猛烈に歯を磨いたのだと説明されなければ納得できないレベルである。一体なぜこのようなことになってしまったのだろうか。


 白状すると、ある友人が僕の家のトイレで個展を開く予定なので一生懸命これで掃除をしたのだ。「トイレで個展」。常識の備わっている普通の大人であればこの部分で違和感を覚えるはずだ。個展というものは画廊や美術館でやるものではなかったろうか。人の家で展示をするという正気とは思えない発想。しかもあえてのトイレだ。そんな場所に大事な作品を置いていいのかと心配になる。というかその前に展示中の僕の生活はどうなるのか。うちのトイレは貸し画廊ではない。


整いました_e0188090_1440682.jpg
 僕の住むマンションは風呂とトイレと洗面所が一緒になっている。といってもいわゆるユニットバスではなく、古いマンションによくあるタイプらしいが造りがそれよりも広い。
 ここで個展を開きたいと言っているWさんがそろそろ下見に行くというメールを寄越してきた。数ヶ月前にこの話が持ち上がった時は半分冗談かと思っていたがどうやら本気らしいので、床のタイルを歯ブラシとクレンザーでピカピカにしたのだ。

 Wさんはこのタイルの持つレトロな雰囲気が大変お気に召したようで、個展に踏み切るきっかけもそこにあったといっても過言ではないらしい。そこが醜く汚れていたら展覧会のイメージも損なわれてしまうだろう。絵を壁に飾るだけでなく、空間全体を使って作品にするということも言っていたような気がする。僕がタイルの目のすき間の汚れを徹底的に除去するのに2時間ほど費やしたことは言うまでもない。


 トイレ掃除が終われば全ての準備が整うと思ったら大間違いだ。僕の家は玄関からトイレが直結しているわけではないので、4畳ほどのダイニングキッチンに足を踏み入れなければ展覧会場(トイレ)に入ることはできない。つまりトイレだけでなく台所の掃除もしておかなければ、ご来場下さった方々に生活感あふれる流し台をさらすことになる。「逆にお客さんが来た方が掃除するきっかけになっていい」といくら自分に言い聞かせても拭いきれない、「なぜうちで個展をやるのか」という12文字が心の内側にこびり付いて離れない。

 しかしWさんが計画しているのはかなり内輪な展示だそうで、仲の良い友達だけが集まってワイワイやるのはなかなか楽しそうなイベントである。来てくれた人たちとお酒を飲んだり、絵の話でいつになく盛り上がったり・・・。もしかしたら芸術家にとってそれが一番幸せな展示の形なのかもしれない。そう考えると今回のトイレ掃除も決して無駄ではなかったと思えてくる。

 この家なんて、世界中でわずかな人しか知らないささやかな場所かもしれない。けれど誰かにとっては、この空間が世界でたったひとつの宝石箱になる。
 僕はこの奇跡的な機会に感謝したい。Wさんがなにげなく口にした「冷蔵庫の中にも展示がしたい」という謎めいた言葉が聞きまちがいだったとすれば、僕はしばらく風呂にもトイレにも入れないだけで、ごく普通に生活をしながら夢を叶える手伝いをさせてもらえるのだから。
by msk_khr | 2011-04-08 17:18 | 日々のこと