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memo

おとなりの恐怖(2)

 せんべいの入ったビニール袋と圧着ハガキを片手に持ち、僕は意を決してインターホンを押した。

 しかしやはり音は鳴らなかった。昨年の春とまったく同じ感触。ここまでは想定の範囲内だ。僕は仕方なくノックをした。短い沈黙。名前を名乗って、もう一度ノック。やはり出ない。電気のメーターを見るとゆっくりと回っている。これは待機電力だけでなく、部屋の明かりを付けているくらいの速さだ。もう一度、少し強めにノックをし、さっきよりもややはっきりと名前を告げる。1分待ったが諦めた。自分の家に戻って、ベランダから隣りの家の窓を見るとやっぱり電気が付いている。どうやら居留守をしているようだ。しばらく部屋でじっとしていると、壁の向こうからかすかに蛇口をひねるような音が聞こえた。

 居留守を決め込まれては埒が明かないので、謝罪の手紙を添えてドアポストに投函することにした。彼は僕と同じように、知らない人の来訪はとりあえず無視し、しばらく相手の様子を伺うという方針で生きているのかもしれない。
 ハガキと手紙をポストに入れ、せんべいはドアノブに吊るしてみたが、いざ吊るしてみるとものすごく怪しく見えた。しかし手紙には「お詫びの品、御召し上がりください」的なことも書いてしまったのでもう後戻りはできない。僕は先にせんべいを見つけられてしまった時のことを考え、急いでもう一枚手紙をしたためて吊るしたビニール袋に留めておいた。

 その夜の11時頃、風呂に入る前に一度隣りの家のドアノブを見てみたが、まだ袋は吊るされたままだった。ノックには気付いていたはずだから、わりとすぐに確かめると思っていたので意外に思ったが、ひょっとすると本当にあの時は聞こえていなかったのかもしれない。明日の朝まで気付かないかな、と思って寝る支度をしていると、0時過ぎに僕の住む階にエレベーターが止まる音がした。数秒後にビニール袋が擦れるような音。鍵を開けて中に入る音。もう一度ドアノブを確認するとせんべいの袋はもうなかった。

 不思議に思った。部屋で手紙を書いている時、確かに隣りの家からは生活音が聞こえた。そのあと彼が一度外に出たのだとしても、ドアを閉める時に必ず袋の存在に気付くはずだ。かなり目立つから気付かないなんてことはあり得なかった。もちろん彼に同居人はいない。つまり今日彼は家を留守にし、たった今帰ってきたのだ。だとするとおかしなことになる。深夜に彼が帰ってくるまでのあいだ、明かりの付いたその家で蛇口をひねっていたのは一体誰だったのだろうか・・・?
 不意に、僕の背筋に冷たいものが走った。幽霊だとかいう話ではない。向こうの部屋の音がこちらに届いているということは、こちらの音も多少なりとも隣りに聞こえているということだ。音が響くのは木造アパートだけかと思っていた。鉄筋コンクリートのマンションだから大丈夫だろうと完全に気をゆるめていた。

 僕はもう、My Little Loverの「Hello,Again 〜昔からある場所〜」を部屋で歌うのはよそうと思った。
by msk_khr | 2011-03-03 01:50 | 日々のこと