おとなりの恐怖(1)
先日、夜の10時頃に仕事から帰ると、ポストの中に区内の新築マンションのチラシが投函されていた。僕はかなり疲れていたのだが、ポストの中は常にクリアな状態に保ちたいのでそれをしぶしぶ回収した。するとチラシに隠れて郵便ハガキが入っていた。個人情報漏洩防止のために二つ折りに圧着されているやつだ。時期的に給与明細書だと思って僕は開いた。しかし内容にはどうも見覚えがない。宛名を確認すると知らない人の名前が書いてある。ワンテンポ遅れて脳幹が凍った。
開けてしまったのは隣りに住む大学生の保険に関する重要書類だった。よく考えれなければ思い出せないほど、その隣人とは接触がなかった。僕は焦った。これは最も他人が見てはならない種類のものだ。宛名の右上には「重要」「親展」と朱色で大きく印刷されている。惜しいことに僕は彼の親ではなかった。僕と彼の名字は一文字違いで、宛名に書かれている住所はマンションの名前までで部屋の号数までは記されていなかった。郵便局員が誤配してもおかしくはない。僕は確認せずに即行でハガキを開いてしまった自分を恨んだ。
圧着ハガキは開いたあとの「巻き」が凄まじい。まるで㎗(デシリットル)という文字を具現化したかのような強烈なクセがついている。一瞬、このまま隣りのポストに入れておいてしまおうかという愚かな考えが浮かんだが、やめておいて本当に良かったと思う。この手のハガキが開封済みでポストに入っているところなんて一回も見たことがない。そんなことをしたら今度はそれを見た大学生の脳幹を凍らせてしまうだろう。とりあえず僕は一度頭を冷やして対策を練ることにした。
家に帰って押し入れからアイロンを取り出した。もしかしたら熱を加えることによってもう一度ハガキの糊をくっつけることができるかもしれない。そうすれば何もなかったことにして隣人のポストに再び投函しておけば良いのだ。一番それが楽な解決方法だと思った。アイロンを数回往復させると、湾曲していたハガキが少しずつ平らになっていく。しかし頬ずりしたくなるような温度になるだけで一向に粘着力が復活する気配はない。熱がまだ足りないのだろうか。ハガキを焦がさないように注意しながら、なおも丁寧にアイロンをあてる。
いくらやっても全然くっつかないので、馬鹿らしくなってアイロンのスイッチを切った。疲れて腹も減っているのに、なぜ僕は人様のハガキにアイロンがけをしているのだろう。全く意味が分からない。だいいち、熱を加えるだけで元に戻せるくらいならプライバシーを守れないではないか。ネットで調べてみると案の定、使われている接着剤は特殊なもので、数百トンの圧力をかけて貼り合わされているらしい。もう一度くっつけるには同じくらいのパワーが要る。物理的には到底不可能なので、地球の重力自体をどうにか操作しようと試みたがあえなく失敗。
こうなったらもう正直に事情を話し、謝って許してもらおうと思った。「捨てちゃえよ。どうせわかんねーよ」という悪魔の囁きが油断すると聞こえてくるが、それを強い意志で振り払う。これは自分との戦いだった。気がかりなのはその大学生の家のインターホンが全く機能しないということだった。昨年の春に引っ越しのご挨拶に伺った時も、インターホンは鳴らないし、ノックしても出てこないしで完全に僕は出鼻を挫かれた。結局今までずるずるときちんとした挨拶ができていない。渡せずじまいで自分で平らげたピーナッツサブレの味をふと思い出す。顔もよく知らない隣人にいきなりの謝罪である。思いっきり荷が重い。
しかも彼の名前が恐かった。「岩」という字と「巌」という字がふたつとも入っている。これは強くないはずがない。何度か彼をマンションのそばで見かけたことがあったが、確かに僕より体がふた周りほど大きかった。大学生なので年下の可能性が高いが、戦闘力は僕の方が遥かに低いだろう。
その日はもう深夜になろうとしていたので、謝りに行くのは翌日にした。何かお詫びの品をと思い、近くのせんべい屋で二種類のせんべいを購入。こんなもの果たして要るのだろうか。せんべいなんかで許すと思ってるのか、と怒鳴られるかもしれない。けれど今回の件で何かしら相手にプラスポイントがなければ、彼はただ単に郵便物を見られて損をしたことになる。僕は計630円の焼きせんべいの持つシュールな空気感が場の緊張をほどよく和らげてくれることを信じて、爆弾のスイッチを押すような固い手つきでインターホンを押した。
〜つづく〜
開けてしまったのは隣りに住む大学生の保険に関する重要書類だった。よく考えれなければ思い出せないほど、その隣人とは接触がなかった。僕は焦った。これは最も他人が見てはならない種類のものだ。宛名の右上には「重要」「親展」と朱色で大きく印刷されている。惜しいことに僕は彼の親ではなかった。僕と彼の名字は一文字違いで、宛名に書かれている住所はマンションの名前までで部屋の号数までは記されていなかった。郵便局員が誤配してもおかしくはない。僕は確認せずに即行でハガキを開いてしまった自分を恨んだ。
圧着ハガキは開いたあとの「巻き」が凄まじい。まるで㎗(デシリットル)という文字を具現化したかのような強烈なクセがついている。一瞬、このまま隣りのポストに入れておいてしまおうかという愚かな考えが浮かんだが、やめておいて本当に良かったと思う。この手のハガキが開封済みでポストに入っているところなんて一回も見たことがない。そんなことをしたら今度はそれを見た大学生の脳幹を凍らせてしまうだろう。とりあえず僕は一度頭を冷やして対策を練ることにした。
家に帰って押し入れからアイロンを取り出した。もしかしたら熱を加えることによってもう一度ハガキの糊をくっつけることができるかもしれない。そうすれば何もなかったことにして隣人のポストに再び投函しておけば良いのだ。一番それが楽な解決方法だと思った。アイロンを数回往復させると、湾曲していたハガキが少しずつ平らになっていく。しかし頬ずりしたくなるような温度になるだけで一向に粘着力が復活する気配はない。熱がまだ足りないのだろうか。ハガキを焦がさないように注意しながら、なおも丁寧にアイロンをあてる。
いくらやっても全然くっつかないので、馬鹿らしくなってアイロンのスイッチを切った。疲れて腹も減っているのに、なぜ僕は人様のハガキにアイロンがけをしているのだろう。全く意味が分からない。だいいち、熱を加えるだけで元に戻せるくらいならプライバシーを守れないではないか。ネットで調べてみると案の定、使われている接着剤は特殊なもので、数百トンの圧力をかけて貼り合わされているらしい。もう一度くっつけるには同じくらいのパワーが要る。物理的には到底不可能なので、地球の重力自体をどうにか操作しようと試みたがあえなく失敗。
こうなったらもう正直に事情を話し、謝って許してもらおうと思った。「捨てちゃえよ。どうせわかんねーよ」という悪魔の囁きが油断すると聞こえてくるが、それを強い意志で振り払う。これは自分との戦いだった。気がかりなのはその大学生の家のインターホンが全く機能しないということだった。昨年の春に引っ越しのご挨拶に伺った時も、インターホンは鳴らないし、ノックしても出てこないしで完全に僕は出鼻を挫かれた。結局今までずるずるときちんとした挨拶ができていない。渡せずじまいで自分で平らげたピーナッツサブレの味をふと思い出す。顔もよく知らない隣人にいきなりの謝罪である。思いっきり荷が重い。
しかも彼の名前が恐かった。「岩」という字と「巌」という字がふたつとも入っている。これは強くないはずがない。何度か彼をマンションのそばで見かけたことがあったが、確かに僕より体がふた周りほど大きかった。大学生なので年下の可能性が高いが、戦闘力は僕の方が遥かに低いだろう。
その日はもう深夜になろうとしていたので、謝りに行くのは翌日にした。何かお詫びの品をと思い、近くのせんべい屋で二種類のせんべいを購入。こんなもの果たして要るのだろうか。せんべいなんかで許すと思ってるのか、と怒鳴られるかもしれない。けれど今回の件で何かしら相手にプラスポイントがなければ、彼はただ単に郵便物を見られて損をしたことになる。僕は計630円の焼きせんべいの持つシュールな空気感が場の緊張をほどよく和らげてくれることを信じて、爆弾のスイッチを押すような固い手つきでインターホンを押した。
〜つづく〜
by msk_khr
| 2011-02-25 20:13
| 日々のこと