歯よ、ありがとう
今、僕の机の引き出しの中には6本の歯が収められている。これらはすべて僕がこの2ヶ月で抜いた歯だ。歯医者さんがプラスチックケース(なぜかネズミの形をしている)に入れてお土産にくれたのである。
全ての歯が原型を保っているわけではない。中には抜歯の過程で粉々に砕かれたものもある。歯肉の中に潜んでいた下あごの奥の左右2本の親知らずはそのまま引っこ抜くことができなかったので、メスで肉を切り裂き対象の歯をあらわにし、極小の電動のこぎりのような器具でいくつかに切り分けていたようだった。麻酔がなかったら気絶していたと思う。僕は手術中はずっと固く目をつぶって歯科医に身を任せていた。
しかし6本も抜くとさすがに慣れてくるものだ。僕はなるべく面白いことを“考えないように”努めた。絶対に笑ってはいけない場面でくだらないことを考えてしまうのは僕の悪い癖だった。そう思った瞬間「ぴーひょろ」という言葉が浮かんだ。笛だ。笛の音だ。まったく脈絡もなく笛の音が聞こえた。ぴーひょろぴーひょろひょろぴーひょろろ〜・・。気の抜けた「ぴーひょろ」が僕の脳内に繰り返しこだまする。これはまずい。このまま笑ってしまったら手術に支障をきたすだけでなく社会的信用を失いかねない。歯科医もまさか苦悶の表情を浮かべながら耐える僕の頭の中で陽気な祭りばやしが奏でられているとは思わなかっただろう。手術中に笑いをこらえる二重苦だ。今思えば「ぴーひょろ」の何が面白かったのかわからないが、僕は笑いを押し殺すために太ももを強くつねってその場をしのいだ。
お土産にもらった歯を永久にしまっておくのももったいない。何か有効活用はできないだろうか。まず考えたのが、作品のモチーフにするということだった。おそらくまだ誰も虫歯をテーマに絵を描いた人はいないだろう。真っ暗な広い空間の中央に真珠の塔のようにそびえ立つ巨大な白い結晶体。その横に静かに佇む槍を持ったふたりの黒い悪魔・・。静謐かつちょっぴりコミカルな作品ができるかもしれないと思い鉛筆で下絵を描いてみたものの、どうしても「歯」をかっこ良く描くことができず断念。「歯」という一見間抜けなものを美的に昇華させるには相当な力量が必要だということだけがわかった。
他に使えるとしたら、どこかの殺人現場に僕の歯をこっそり落としておいて警察の捜査を攪乱することくらいだ。しかしその場合意味もなく僕が重要参考人として署まで任意同行を願われるだけなので却下である。僕にまったく関係のない事件現場になぜ僕の親知らずが落ちているのか、警察に納得のいく説明ができる人間がこの世のどこにいるだろう?
切ったあとの爪や髪の毛には愛着を持つことはないのに、なぜか抜いた歯を捨てる気持ちにはなれない。今まで自分と一緒に生きてきた歯だ。しかし彼らは僕の口内環境をより良くするために無理矢理母体から切り離された。エナメルの鎧をまとった尊い犠牲者たち。僕は少なくとも彼らに心からの敬意を示さねばならない。
ネズミ型プラケースに封印された6本の歯。僕は今日からこの歯のことをかっこ良く「賢者の石」と呼ぶことにした。
全ての歯が原型を保っているわけではない。中には抜歯の過程で粉々に砕かれたものもある。歯肉の中に潜んでいた下あごの奥の左右2本の親知らずはそのまま引っこ抜くことができなかったので、メスで肉を切り裂き対象の歯をあらわにし、極小の電動のこぎりのような器具でいくつかに切り分けていたようだった。麻酔がなかったら気絶していたと思う。僕は手術中はずっと固く目をつぶって歯科医に身を任せていた。
しかし6本も抜くとさすがに慣れてくるものだ。僕はなるべく面白いことを“考えないように”努めた。絶対に笑ってはいけない場面でくだらないことを考えてしまうのは僕の悪い癖だった。そう思った瞬間「ぴーひょろ」という言葉が浮かんだ。笛だ。笛の音だ。まったく脈絡もなく笛の音が聞こえた。ぴーひょろぴーひょろひょろぴーひょろろ〜・・。気の抜けた「ぴーひょろ」が僕の脳内に繰り返しこだまする。これはまずい。このまま笑ってしまったら手術に支障をきたすだけでなく社会的信用を失いかねない。歯科医もまさか苦悶の表情を浮かべながら耐える僕の頭の中で陽気な祭りばやしが奏でられているとは思わなかっただろう。手術中に笑いをこらえる二重苦だ。今思えば「ぴーひょろ」の何が面白かったのかわからないが、僕は笑いを押し殺すために太ももを強くつねってその場をしのいだ。
お土産にもらった歯を永久にしまっておくのももったいない。何か有効活用はできないだろうか。まず考えたのが、作品のモチーフにするということだった。おそらくまだ誰も虫歯をテーマに絵を描いた人はいないだろう。真っ暗な広い空間の中央に真珠の塔のようにそびえ立つ巨大な白い結晶体。その横に静かに佇む槍を持ったふたりの黒い悪魔・・。静謐かつちょっぴりコミカルな作品ができるかもしれないと思い鉛筆で下絵を描いてみたものの、どうしても「歯」をかっこ良く描くことができず断念。「歯」という一見間抜けなものを美的に昇華させるには相当な力量が必要だということだけがわかった。
他に使えるとしたら、どこかの殺人現場に僕の歯をこっそり落としておいて警察の捜査を攪乱することくらいだ。しかしその場合意味もなく僕が重要参考人として署まで任意同行を願われるだけなので却下である。僕にまったく関係のない事件現場になぜ僕の親知らずが落ちているのか、警察に納得のいく説明ができる人間がこの世のどこにいるだろう?
切ったあとの爪や髪の毛には愛着を持つことはないのに、なぜか抜いた歯を捨てる気持ちにはなれない。今まで自分と一緒に生きてきた歯だ。しかし彼らは僕の口内環境をより良くするために無理矢理母体から切り離された。エナメルの鎧をまとった尊い犠牲者たち。僕は少なくとも彼らに心からの敬意を示さねばならない。
ネズミ型プラケースに封印された6本の歯。僕は今日からこの歯のことをかっこ良く「賢者の石」と呼ぶことにした。
by msk_khr
| 2011-01-09 17:05
| 日々のこと