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memo

黒くてとても目立つ糸

 歯を抜いた。生まれて初めて自分の体にメスが入った。麻酔注射を歯茎の外側と内側にそれぞれ4本ずつくらい打たれたので抜歯の痛みは無かった。注射自体の方がよっぽど痛かった。歯茎の外側よりも内側に打たれる方が痛い。人間の体はより内側に隠れている部分の方が外部からの刺激に敏感なのかもしれない。脇をくすぐられると大変こそばゆく感じるのと同じだ。
 その日は計2本の歯を抜く予定だったのだが、麻酔のおかげでほとんど感覚がなかったので、自分が今抜かれていると思っている歯とは別の歯を抜かれていたことに僕は全く気が付かなかった。そのことを知らされたのはすべてが終わったあとだった。

 一番最初に抜いてもらおうと思っていた邪魔な歯〈A〉を抜かれているイメージを脳内に浮かべている間、歯科医は前歯の裏の歯茎をメスで切り裂き、過剰歯と呼ばれる余分な歯〈B〉を音もなく取り出していた。そして〈A〉の歯の並びの奥に生えている親知らず〈C〉を抜かれている覚悟で僕が体をこわばらせている時に、彼は〈A〉の根っこを掘り起こしていたのだ。推理小説でよくある、死体のすり替え的な発想だ。主人公が訪れた村に古くから伝わる呪いの唄になぞらえて繰り広げられる連続抜歯。すでに抜かれたと思われていたAさんは実はまだ生えていた。そしてBさんが抜かれたあとにAさんは本当に抜かれたのだ。思い込みを利用した巧妙なトリックだ。

 過剰歯〈B〉を取るために切開された前歯の裏の歯茎は、黒くてとても目立つ糸で縫い付けられた。どういう縫い方なのかはよくわからないが、前歯と前歯のすき間の歯茎ぎりぎりの位置から、糸が後ろから貫通して5mmほど情けなく飛び出ている。それが計3カ所ある。しなやかなその糸は4本の前歯のすき間をぴったりと埋め、僕の歯を若干すきっ歯に見せた。一方、笑った時などは上唇の動きにつられて糸の端が時おり自由変形し、前歯だけに集中的に糸昆布が挟まっているかのような滑稽な印象を見る者に与える。
 運の悪いことに僕は仕事上、明日50人ほどの中学生たちに会わなければならなかった。しかし「過剰歯〈B〉を取るために切開された前歯の裏の歯茎は、黒くてとても目立つ糸で縫い付けられた・・・」などと事のあらましをいちいち説明するのは面倒だ。とにかくできるだけ笑わないようにしよう。来週になれば糸を抜いてもらえる。それまでの辛抱だ。笑ったら笑われる。思春期の子どもたちは他人を嘲ることが一番の得意科目だ。笑ってはいけない。笑ってはいけない・・・。

 こうして、僕が人前で笑顔を見せることは二度と無かった。
by msk_khr | 2010-11-25 21:12 | 日々のこと