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memo

歯医者

 久々に歯医者に行った。たぶん10年ぶりくらいだ。虫歯の疑いのある歯がいくつかあったのと、ひとつおかしな向きに生えてしまっている歯があったので、それらについて相談しようと思ったのだ。1人で歯医者に行くのはこれが初めてだった。
 全世界の人間が歯医者という存在を嫌っている。歯科について良い思い出を持っている人はほとんどいないと思う。僕もその例外ではない。予約の電話をかける決心をするだけでも1週間かかってしまった。
 小学生の頃に母親に連れられて行ったときの忌わしき記憶が蘇る。

 10年前のその日、僕は歯のレントゲンか何かを撮るために1畳くらいの窮屈な部屋に押し込まれ、奥歯に固めのスポンジのようなものを噛まされた。歯医者は僕に数秒間それを噛み締めているよう命令した。
 無理だと思った。くすりのにおい、と頭の中で考えた直後に吐き気がした。噛み締めた瞬間、閉ざされたドアの内側のちょうど目線の高さに「ちびまる子ちゃん」のシールが貼ってあることに僕は気付いた。これで子どもたちの気を紛らわそうという作戦らしい。当時の僕は気休めという言葉をまだ知らなかったが、これは気休めでしかないと思った。さくらももこに僕の吐き気を止められるとは到底思えなかった。そして僕は嘔吐した。
 吐いたせいで2回くらいやり直しをした。3回目の挑戦で僕は全神経をまる子の顔に集中させた。藁にもすがる思いだった。あまりにも集中しすぎて、もはや「ちびまる子ちゃんのシール」ではなく、「ちびまる子ちゃんのシールを凝視する自分」に意識をもっていくレベルに達していた。小学生にして僕は自己を客観的に見る術を身につけてしまったのだ。

 今回の歯医者でもその歴史が繰り返されるのではないかと、僕はひどく怯えた。しかし21世紀型のレントゲンは全く苦痛のないものに進化していた。まずあの「デス・スポンジ」の姿がなかった。代わりに噛まされたのは機械と一体化したプラスチックの板である。ちょうどタバコを平たく潰したような形のものがあごを乗せる台からL字型に突き出ていて、それを前歯で軽く噛めばいいだけだった。僕は心底感動した。これなら意識の外側から自分を傍観する必要もない。何回でもできると思った。
 しかし顔の前に小さな鏡がついていて、自らの間抜けな姿を見つめながら時を待つ仕様になっていた。しかも完全に自分の方に向いているものだけでなく、少しだけ角度が斜めになっている鏡もその横にあり、そこになぜか歯医者の顔が映っていた。こんな時はいったいどんな顔をすれば良いのだろう。真顔だと吹き出してしまう。かといってモナ・リザのように微笑んでいるのもおかしい。歯医者はドアの窓からこちらの様子を窺っている。歯のレントゲンを撮られながら心まで見透かされているような気がした。そっちがそのつもりなら、と僕はちびまる子ちゃんの顔を頭に浮かべた。

 初回はレントゲン撮影と歯石の除去だけで終わったが、これから何回か通い続けて虫歯の治療と不要な歯の抜歯をしなければならない。おかしな向きで生えている歯はもともと抜くつもりではいたが、前歯の裏側に過剰歯という無駄な歯が潜んでいる事実が判明したので、それも早いうちに抜く必要があるそうだ。今は歯茎の下に完全に隠れているが、いつか前歯を押しのけて出てきてしまう可能性があるらしい。やめてほしいと思った。
 さらに下あごの一番奥には親知らずが両サイドに埋まっていて、左右ともその手前の歯が邪魔をして出て来れない状態なのでそれもそのうちに抜くことになった。全身麻酔を打つらしい。もう記憶を無くしたいと思った。

 虫歯なら予防することができるが、歯並びに関しては自分の力ではどうにもならない。生まれたときから決まっていたことを嘆いても仕方ないし、抜歯よりもつらいことなんていくらでもあるのだ。なるべく幸せなときに歯医者に行こうと思った。そうすれば総合的に気持ちがプラマイゼロになり、10年後に思い出すようなこともないはずだから。
by msk_khr | 2010-10-04 18:15 | 日々のこと